よろず無駄無し屋

妖しい空気と魅力が漂うブログ

自分の行為が神聖でいて崇高なものであると信じきれるか


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世の中の宗教や、大成功を納めた実業家などを見ていると、

 

あたかも自分の行為が神聖で崇高なものであると信じきっているような感じを受ける。

 

その行為が一般的に見てどうであろうが、とにかく自分の行為を正しいと信じることは理屈、道徳すらも蹴散らすほどにつよい。

これもこの世の中に無数にある法則の中の一つではないかと思っている。

この国では信仰という言葉、営みに対して否定的に捉えられることが多い。

 

全てを信仰=洗脳という間違った捉え方をしている人が少なくない。

 

しかしそうした洗脳を嫌がる人の殆どが、自分がテレビや広告やその他の情報に洗脳されていることに気づいていないのは些か滑稽ですらあるように感じる。

 

何を信じて何を疑うかの分別ができていないと、望む状況を手に入れるのは非常に難しい。

信じなくても良い事、物、人を信じてしまうのは、信じなくてもいい事、物、人側からの積極的なアプローチによるところが大きい。

往々にして偽物は派手で分かりやすいものであるし、やたらと積極的でもある。

本物というのは小賢しいアピールなどに無頓着である。

勿論、全てがそうではなく、例外も存在することは言うまでもないが書くまではある。

 

あまり熱心にこの手の話をしていると、どんどん脱線していくので話を元に戻そう。

 

信じきるということはつまり迷いがないということになる。

自分は書道を嗜むが、迷いがない時の線ははっきりと率直に言って素晴らしい。自画自賛。

これは技術面での話ではなく、線に宿る魂という意味においてのことである。

このブログにしたって発信するのはメッセージであり、そのメッセージを発信するという行為に崇高なものを感じ、それを誰がなんと言おうと信じきって書いている。

 

共感できない人もいるのは当たり前の事であり、そんなことにいちいち弱気になって迷うようであるならば、自分はこのブログに意味を見出だせない。

自分は自分の信じるものに全幅の信頼を寄せ、ただ思った通りのことを書くだけのことだ。

そしてそのメッセージが何処かの誰かに益となる形で届くのを純粋に願っている。

 

無難にいくのならばまた話がかわってくるが、上を目指すのならば極端な位じゃないといつまで経ってもラチがあかない。

先日引退したイチローは、築いた結果よりも野球に対する姿勢が素晴らしいと思うので尊敬に値する立派な人間であると思いはするが、見方を変えるとえらく極端な思考を持っているともとれる。

 

一番とか唯一無二といったところに君臨する猛者達の中に、無難な考えや自分の行為に迷いを持っている人はいないんじゃないかと推測することは容易い。

リスキーな判断をあえて下し、そこを突破する胆力を身につけてこそハイリターンは手元に転がり込んでくるのではないか。

 

目指す処、望むものがあるならば、それが神聖で崇高なものであると信じきることだ。

 

と、自分は信じきっている。