よろず無駄無し屋

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道徳と法則の不一致

 

人間の善意の感情と人生がうまくいく仕組み、つまりこの世の法則は必ずしも一致しない。

それどころか、善であろうが悪であろうが感情での判断では辻褄が合わずうまくいかないことのほうが多い。

 

たとえば可哀想という感情のみで相手に施しを与えたとする。

これはいわば善意であり、自分の気持ちは満足するだろうし、一見その相手も助かったかに見えるし、事実助かっていることもあるだろう。道徳的にも素晴らしい行いである。

しかし目線を少し離して遠くからこの行いを大局的に眺めてみると、また違ったふうに見えてくる。

 

施すことは助けにもなれば、甘やかしにもなることがある。

相手にもよるが、野良犬、野良猫のように一回餌をやるとまたくれると思ってつきまとわれることもある。

そうした場合、何回でも施すよ、というような覚悟と余裕があればいいのだが、そうでない場合は迷惑になってくる。

 

説明が長くなることは良くないので誤解を恐れずに単刀直入に言えば、

自然界の法則により淘汰されるべきものは人間もまた例外ではない

と、いうことだ。

ひどいひどくないなどという感情論はここに至ってはなんの意味ももたない。

法則に対して感情は無力だ。

 

 

悪い人間は他人に対する善意を持っていないが、それと同時に悪意も持っていない。

結果的に相手を泣かしてはいるが、別に相手を泣かしたいとも思っていない。

ただ純粋に、感情ではなく、自己の繁栄という動物的本能に忠実なだけなのである。

それは道徳的には間違っているかもしれないが法則的には間違っていない。

なので綺麗事や道徳論に縛られていない悪人が強いのは言ってみれば当たり前のことなのである。

悪人からしたら、過度な善意や道徳論などというぬるい話をする人間達を鼻で笑っていることだろう。

善人は悪人のこういうところは少し見習わないといけないように思う。

 

 

この世の法則というものは、そもそも人間の為だけに作られたものではなく、地球上の森羅万象に対応しているものであって、そこで人間が感情とか道徳とかを必要な範囲を越して行使すれば矛盾が発生してうまくいかなくなるというのが、かなしいことだけれども真実だろう。

 

いくら道徳的に素晴らしい人であったとしても、その道徳よりも本質的な法則に逆らっていてはこれは色々と弊害が生じるであろうことを否定はできない。

法則をきちんと理解した上で、度を越していない、適度適切な道徳、善意を持つことが理想である。

 

足るを知って過ぎず及ばずのないようにすること。

これもこの世の法則のひとつである。

 

これでは説明が不十分な感があるけれど、今の自分の表現力ではここまでが限界なのでどうか許していただきたいし、許していただけなければそれは仕方ないと思っている。