よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

当たり前だと思っていては感謝はできなく幸福も感じられない

 

因島という島に住んでいる。

 

本土の流れとは一線を画しているところが気に入っている。

大きな国道なんてものは通ってなくて、この島に何かしらの用事がある人間しか入ってはこない。

 

それでも島にしてはわりと大きく、人工は2万6千人ほどかな。

昼間はそこそこの活気があるといっていいほうだろう。

そしてそこそこのどかだと言っても差し支えない。

 

しまなみ街道のサイクリングのメッカ化に伴い自転車乗りが入ってくるようになってからは、近所の神社はいつの間にか自転車の神様を奉っているとかいう設定を打ち出して地元の人間達はすこし小馬鹿にしてるようなフシがある。

 

それでも因島はいいところだ、と、自分は思ってる。

山あり海あり柑橘ありと、自然を謳歌することができるから。

 

村上海賊の本拠地の一つでもある。

海賊といっても今でいう海軍のようなものらしく、地元の人間はこの海賊を誇りに思っているようである。

 

ポルノグラフィティは島出身の有名人ではあるが、うちの母親とポルノの母親はスーパーで顔を会わせると井戸端会議を始めるという具合に、なにも特別な存在だとは感じないし、歌を歌っている方の実家の前を毎日通り過ぎたりもする。

 

何年か前に尾道に吸収されてしまったのは残念なことだったが、それでも今でも因島は尾道という名をつけられはしたが、尾道とは違う独自の文化があるように思う。

 

瀬戸内海の多島美は島で育った自分にとっては当たり前の風景であったが、大人になって色んな地域の人間と繋がり、その人間達が遊びに来たときの驚き&喜び様にはこちらが驚いてしまうくらいのものであった。

 

 

当たり前にあるものはありがたさに気づきにくい、という好例である。

 

 

そういう気づけていないありがたさにどれだけ気づけるか、というところに人生というか、心を豊かにするヒントが隠されているように思えてならない。

 

当たり前は実は当たり前ではない。

 

と、感じることができれば、色々なことや人に、もうすこし感謝することができるであろうし、喜ぶこともできるというものだ。

 

人生に喜びを見出だせない人は、言い方を変えると気づきが足りない人と言うこともできなくはない。

マイナスな面だけに気づき、プラスな面には気づいておらず、悲観的になっている人をこれまで何人も見てきたが、そういう人を見たって可哀想だとは全く思わない。

 

客観的に見ていると恵まれているところもいっぱいあるのが見えるからである。

可哀想とは思わないが、残念だとは思う。

 

でもまぁ、そういう類いの人達はこちらが恵まれた面もあるじゃない、と言ったところで耳を貸す気もないみたいだし、すぐに前向きなものの見方に対して嫌悪感を抱こうとするので、勝手にすればいいと思っている。

 

他人が自ら進んで不幸と思いたいものをこちらがそれを邪魔する権利はないのだから。

 

幸も不幸も自分の捉え方しだいだということに気づいていない人は、おそらく一生幸せとは無縁なままで終わっていくんだろうし、それはそれで自分が選んだ道なのだから、他人がとやかく言うことでもないような気もする。

 

 

因島に生まれ育ち、若い時分はなんと退屈なところに生まれたものかと嘆いたときもあったように記憶しているが、それは若さゆえの気づきの浅さによるもので、当たり前に夏に毎日海で遊べていたこととかに対してありがたさを感じれていなかったと、当たり前は当たり前ではなかったと、島を出て過ごしてみたことで気づけたということなのである。

 

 

当たり前だと思っていることも、時と場所、状況が変わればそうじゃなくなる、ということに気づけば、失ってから気づくという失態を晒すことなく、失う前に気づいてそこに感謝の念を抱き、自分は幸福なんだと感じることもできるのではないかと思うのである。

 

人生は確かに良いことばかりではないが、たしかに悪いことばかりでもないのに、悪いことばかりに目を向けるのは愚かなことなのである。

 

 

島は今日ものどかに鳥が鳴き、空は青く、海は穏やかだ。


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