よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

変わり者と言われてる奴の思想

 

本日薄曇りにて涼しい瀬戸内海。

 

午後からは雨のようだ。

やっとこさ梅雨の到来かいな。

 

 

全くのアウトドア派であった二年前までとはうってかわって現在はインドア派にシフトチェンジしてゆき、こうして柄にもないblogなんかを書いてみたり、ゆっくりと物思いに耽ったりと悠々自適にあまり社会とは関わり合わずに生きている。

 

愉快だ。

 

社会に未練は全くないし、そもそもすでに遠い昔に魅力を感じなくなっていたものだから、どうにかして自分の世界の中で暮らしていってやろうと目論むこと10年。

 

念願叶って、今はそれは周囲の人達からは、「アイツは何をして生きているのか?」 などという疑問を持たれているであろうが、そんな退屈な疑問を持つパンピーなんかよりもよっぽど充実した幸福な人生を送っているという事実が実に愉快なことなんだ。

 

変人、とか、変わり者、という形容は自分にとっては誉め言葉。

しかし、少数派、マイノリティが常に変人であるとは限らず、こちらからしたら、自称常識人意識高い系の、気づいていないことに気づいていない多数派の方々のほうがよっぽど変人、というか憐れに見えてしまうのは偽らざる本音。

 

まぁいいのよ。

こんなことを言うと食って掛かってくる単細胞といちいち対立するつもりは基本的にはないんだからどうでも。

 

かかる火の粉は振り払うし、対岸の火事にまで興味は示さない。

情をかけるべき時はかけるし、そうじゃない時には非情にいく。

昨日の味方が今日は敵なんてことは当たり前。

 

必要以上の狩りはしないが、必要な時には躊躇なく狩る。

あくまでも自然界の法則に基づいて行動する。

下手な情けは優しさではなく、無理解であり弱さでもある。

 

なんにしたってこの世の中で、というかこの地球上の人間界の更に上にある自然界において生き残るための最重要要素といえば「つよさ」である。

 

まずはつよさありき。

つよいものが正義とまでは言えないが、つよいものがまかり通るとは言える。

 

優しさだけでは越えられない壁というものがある。

その壁を越えるには非情になりきる勇気が必要だ。

 

善人が弱いのは優しさしか持てないからだ。

悪人がつよいのは非情になりきれるからだ。

 

本当に素晴らしい人間というのは拾うこともできれば、捨てることもできる人。

生かすこともできれば殺すこともできる人。

 

善人と言われたいがゆえの弱者になどなりたくはない。

悪人と言われようが強者でなくてはならない。

 

そもそも悪人、善人の定義にも意識レベルによって随分と差違が出る。

 

だから色々な意識レベルが共存するこの人間界において、ただ一つの絶対の悪とか善というものはないと言ってもいいくらいのものだ。

 

他人のことを安易に

「あの人は善人だ」とか「アイツは悪人だ」

などと判断してはならないね。

 

判断というのは全てが見えてからはじめてすべきこと。

見えてない部分があると感じたならば

「判らない」

というのがベターであろう。

 

まずはつよくなるべし!

話はそれからでも遅くはない。

 

そして清濁併呑

これを肝に銘じておかなければならない。