よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

皿洗いの最中のポジティブな妄想

 

はい、無駄無し屋でございます。

本日も元気に駄文を綴っていこうと思います。

 

いきなりなのですが、私、無駄無し屋は少々がさつなところがございまして、今日の朝などもお皿を洗っている最中にそのお皿を水道の蛇口にぶつけてしまい、あまり耳障りの良くない衝突音を出してしまいました。このような現象も、やはりお皿を丁寧に扱わない、この憎きがさつさからくるものかと思います。しかし、こればかりは持って生まれた性分のようなもので、なかなか改善できないものであることは否めません。

別段がさつなままでも人生を全うすることはできますが、しかし、そのがさつさを少しでも封じ込めることができたならば、今よりも更に人生が良くなることは確かではないかとも思うのです。

 

そこで私は考えました。

 

「どうすればこの憎き役立たずながさつさをこらしめることができるだろうか?」と。

 

そしてふと、まるで天からの贈り物のような一つの閃きが、私のなかに産声をあげました。

 

[このお皿は自分の物じゃないんだ。自分が大切に想っているあの人の物なんだ]

と、思えとです。

 

思わずハッとなりました。

それは別に大切に想っている誰か、じゃなくてもいいんです。例えばこのお皿は物凄く高級品なんだ、でも良いですし、とにかくなんにせよ自分にとって大切な物であると思うことが大事なのだということです。

 

これは物にだけではなく、人間や動物、全ての物事に精通する普遍的な真理なのではなかろうかと、考えを飛躍させてしまいかねないほど素晴らしい思い込みではないでしょうか。

 

つまりそれを突き詰めてゆくとその根本は「愛」ということになると私は信じて疑いません。

愛にも色々なかたちがありますが、その中の一つに丁寧というものがあります。丁寧は愛なのです。

 

と、いうことはその対極にある雑さ、がさつさは愛の対極にあるというほか解釈が見当たりません。そうしたことを考えますと、これまで自分はなんと愛の足りない人間だったのだろうかと、これから先、後悔やら懺悔の念にかられ、夜な夜な枕を濡らす日々が続くのではないかと思うような、思わないような。

 

と、いうようなどうでもいい妄想はこの辺でお開きにして、とにかくこれからはそのお皿がたとえ少し縁が欠けた安物であったとしても、自分にとっては大切なものなんだ、という意識を持って皿洗いに挑もうと思っている、ということなんです。